収穫の秋、小斎の秋。
-米にまつわる地名-
稲の色が深くなる9月。
丸森も、黄金色の田んぼが目立つようになってきました。
重たそうに垂れ下がる稲穂、勇ましく舞うすずめ避けのカイトや、愛嬌がありつつ夜は不気味なカカシ、通りがかると一瞬心臓が縮む首だけマネキンなどが田んぼを見張っている…
毎年楽しみな、良い季節が近づいております。
ところで、数年前に一大ブームとなった稲作ゲーム、「天穂(てんすい)のサクナヒメ」をご存じでしょうか?
ざっくりとしたあらすじをご紹介すると、ちょっと怠惰な神さまが、ある事件をきっかけに神々の住む都を追い出され、鬼の巣くう島に飛ばされます。再び都に戻るため、人の子らとともに稲作に取り組みながら、鬼を倒しながら、鬼島の謎を解明する…といった内容です。
なぜ神が稲作をしているのかというと、主人公は豊穣神の母と武神の父を持つ神で、二柱から素質を受け継いでいます。美味しい米を育てることができると、神としての力が強まり、より強い鬼を倒せるようになります。しばらくプレイさせていただいた大好きなこちらの稲作ゲーム、「米は力だ。」がキャッチコピーです。このコピーも大好きです。
さて、小斎といえば米どころ。地区名物の奉射祭(やぶさめ)は五穀豊穣を祈り、武芸の錬磨を目的とした寛永期からの神事です。ということで!収穫期も間近に迫った今回は、「稲作と信仰に関する地名」をご紹介します。
1. お稲荷さんとは違う? 狐塚(きつねづか)
「狐塚(きつねづか)」は全国に見られ、名の通り塚や祠が残っている場合もあります。
お稲荷さんで馴染みのある稲荷信仰は、農村地域では必ずと言っていいほど存在します。稲荷の語源が「稲刈(イネカリ)」という説も。
お稲荷さんといえば狐のイメージですが、お稲荷さんは正式には宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)という女神さまです。あくまで狐は稲荷大神の眷属、霊獣という立ち位置であり、イコールではありません。油揚げが好きなのも眷属の狐の方です。
なぜ狐かというと、「山の神、田の神」という日本の古くからの考えが元とされています。これは、春先に山から下りてきて田の神となり、収穫期が過ぎると人里を離れ山の神に戻る…そんな神様がいるという考え。この考えと、春から秋の間に人里に姿を見せる狐の姿が重ねられ、農業神である稲荷大神の使いとされるようになりました。
狐塚は田んぼの傍に見られることが多く、これは田の神を祀っているためとされています。稲荷信仰のお稲荷さんか、田の神山の神信仰の狐塚か。似て異なるものですが、同一視されている場合が多いようです。
2. 森田と田中 ってコンビっぽい感じ
森田と田中。人名ではありませんが、セットにするとコンビ感が滲みます。
小斎のモリタは「守田」または「森田」と表記されます。奉射祭(やぶさめ)が行われる鹿島神社近くにある地名です。モリ地名は神社の所在地、鎮守の森を指していたりします。杜の都、といいますが、杜は「社(やしろ)と木」を合わせた字ですね。
そして、田中。こちらは文字通り「真ん中の田」を意味する…と言いつつ、真ん中ってどこから見て真ん中?位置的には、小斎の中心部、あるいは町場というわけでもありません。
かつて周辺には先ほどの狐塚や石仏など、信仰に関する地名がありました。憶測ですが、場所的な田中というより、ある程度重要度が高い田という意味での田中なのではと考えています。
よく似た地名で「前田」があります。田中同様、どこにでもありそうな雰囲気を出しているものの、実は神社やお寺、有力な人物の屋敷前にのみ見られる地名。重要な位置にあり、品質も良い田、という意味合いです。田中の場合も、多くは字の通りの意味ですが、「その土地の最初の田」とかの理由でつけられる場合もあります。
地名は意外と、普通そうなものが面白かったりします。真顔で予想斜め上の発言をする人のギャップが面白いのと似ている気がします。(そんなことはない気もします)
3. 馬頭観音(ばとうかんのん) 牛頭馬頭ではない馬頭
「馬頭観音(ばとうかんのん)」は、通称「六観音」の一尊です。
観音菩薩が広く世を救済するために変身する六つの姿のことで、千手観音や如意輪観音なども六観音です。優し気な印象がある観音さまですが、馬頭観音は今にも雷を落としそうな表情をしています。馬をはじめ、動物全般の健康や安全、そして旅の安全を守るとされる、コワモテな観音さまです。
小斎はかつて馬も歩けない大泥地でした。これは伊達と相馬の戦いの記録にも記されており、伊達の歩兵が大量に足を取られ、落馬が相次ぎ、人も馬も泥に落ちて地獄のようなさまだったとか…ちなみに、牛頭馬頭(ごずめず)とは地獄で亡者たちに責め苦を与える極卒のことです。
穏やかな話に戻りましょう。むかし、小斎の旧道を歩く際は、この観音のある路傍で馬を休ませていたと伝わっています。馬頭観音の近くには「江越」や「打越」などの地名があり、この「越」は交通の要所に多く見られるものです。馬が休憩しているということは、人の休憩所、茶屋などもあったのでしょうか?馬と人の往来、ちょっとひと息ついている姿が見えてくるかもしれない地名です。
4. 運命な気がした 十二ヶ窪(じゅうにがくぼ)
「窪」というのは、山手側の奥まった谷地形に見られる地名です。
そして「十二」は、山の神や信仰に由来する地名に多くみられます。実際、十二ヶ窪には「十二御膳」と呼ばれる祠があり、薬師如来が祀られています。薬師如来には「十二の大願」というものがあり、これは生物をあらゆる苦しみから救済すべく発した誓願集です。また、薬師如来を守護するのは十二人の大将、いわゆる「十二神将」。調べれば調べるほど十二の深みが増してきました。
ちなみに私は平成十二年十二月生まれなので、この「十二」という数字に固執している節があります。見出しで運命と言いましたが、それだけの話です。
阿弥陀如来は死後をたすける仏さまですが、こちらの薬師如来は、先ほどの観音信仰同様、現世をたすける仏さまです。衣食住が今よりもっと過酷で、戦や飢饉も頻繁だった時代。人々は、現世利益を強く求めるようになったとされています。懸命に、ときに祈りながら生きていた人々を思い起こさせる地名です。
変わり種から一見普通なものまで、ざっとご紹介しました。
ひとつ、共通して言えるのは、先人たちの土地への関心の強さ。
当時は、土地への関心→衣食住に直結するものですから、当然と言えば当然ですが、現代の私たちは、自分の住む場所についてどのくらい知っているでしょうか?
どんな歴史があって、どんな暮らしをしていたのだろう?ここではどんな作物が育ち、どんな動物が往来するのだろう?雨はどう流れていくのだろう?
執筆しながら、ぼんやり思いついたことがあります。なんとなく、それこそ馬頭観音のような小さな休憩所、ある種のサービスエリアが、地域に増えたらいいなと思ってます。
ふらっと立ち寄って、ひと息つける場所。お茶したり、本を読んだり、涼んだり、温まったり…小学生と20代や30代が喋る場だったり…できれば田んぼを眺めながら、米を使った軽食をつまみながらひと息つく…学校や職場、集落ごとのコミュニティの他に、気負わない居場所がつくれたら…
「美味しい米を育てると、神としての力が強まり、より強い鬼を倒せるようになる」
これを置き換えて考えてみたところ、
身近に心地よい居場所が増えることで、自分がここに確かに存在している自己存在感が高まり、気持ちに余裕ができて、最終的に郷土への想いが醸成されるのでは
という仮説が生まれました。
現世利益とまでは言いませんが、自分の生きる時間や場所に対して関心を持つことは、稲の青籾が成熟していくように、私たち一度きりの人生を少しだけ深めてくれる…かもしれません。
ということで!2024年、秋!小斎でちょっとイベントします!
まだ詳細はお知らせできませんが、カンタンに言えば文化祭と収穫祭を合わせたものになる予定です。せっかくなので、この地名コラムと絡めて、居心地の良い何かをやれればと…ぜひ続報をお待ちいただければと思います。
ではまた、暑さ落ち着き、寒さはじまる11月にお会いしましょう。