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2024-07-01

【リトル マイ KOSAI】2つぶ目。

半農半芸を描く。起業の妄想その1 
-職業にまつわる地名-

「半農半X」。みなさんも一度は聞いたことがあるかと思います。

 近年注目されているライフスタイルであり、社会の大きな転機となったコロナ禍以降、この独自のスタイルを選択する人が増え続けている印象です。提唱者である塩見さんは、半農半Xについて、次のように定義しています。

「小さな農ある暮らしをベースに、大事にしながら、大好きなことや得意なこと(X)で世に貢献するという生き方です。」

─ 半農半Xとは https://naruto-3rd.com/hannnouhann/

 

 大好きなことや得意なこと、活動拠点は人それぞれ。X通りの生き方があると言えそうです。そのXのひとつに、「半農半芸」というものがあります。キーワード検索で一番にヒットするのが、取手アートプロジェクト(通称TAP)。TAPとは、1999年から続く、取手市×市民×東京藝術大学の三者共同のアートプロジェクト。半農半芸は、TAPのコアプログラムとして展開されているものです。まさに、好きや得意を活かして地域の可能性にスポットを当てる動きです。

 半農半Xという考え方、そしてTAPの取り組み。農ある暮らし、アートのある暮らし、どちらも居心地が良い私にとって、半農半芸は「これだ!」と直感するあり方でした。


小斎のスタンダード?農業×○○

 少し視野を広げて&時間をさかのぼってみましょう。

 時は江戸時代。小斎地区では、兼業農家が大多数を占めていました。(定義としては半農半X≠兼業農家ですが、農業と別の生業を掛け合わせたスタイルという点では共通しています。)当時の地区200 戸のうち、専業農家は 4戸のみ、ほとんどが武士や足軽との兼業であったと伝わっています。その頃の小斎の人々について、次のような伝承があります。

 ―小斎の殿様、佐藤家は天正年間の戦いでの活躍が評価され、以来、伊達家の重要な家臣として長年仕えた。そのためか、佐藤家は勿論、小斎の人々は礼儀作法の美しいことで有名だったようである。算額や礼儀など、小斎佐藤家の教育は村全体に及び、その名残は今日も見られる。東北地方が特に悲惨だったとされる天明の飢饉(1782-1788)の際、佐藤家は穀藏(貯蔵庫)を村民に開いた。よって、小斎村は餓死者が出なかったと伝わっている。―

 半農半武士が主流だった小斎。地区に伝わる奉射祭(やぶさめ)からも、その名残を感じられます。そして、祭りの他にも当時の暮らしぶりを感じられるものがあります。そう、地名です!ここからは、職業にまつわる小斎の地名をご紹介しながら、KOSAIスタイルを探っていきます。


1.糀屋内

 まずは「糀屋内(こうじやうち)」。字の通り、糀を扱う職人が付近に居住していた可能性が考えられます。ちなみに、「こうじ」は「麹」とも書きますね。どちらもほぼ同じ意味合いで使われますが、「麹=こうじ全般」「糀=米こうじ」と定義されることもあります。

 また、「糀」は明治期に作られた日本の国字であるため、明治以前には「麹屋内」とも表記されています。職業や職人にまつわる地名は、城下町が発展し、産業や働き方が多様化することで増えていきます。

 発酵といえば、私、手作り味噌に憧れています。数年前に、好きな作品で描写されているのを読んで以来、機会があれば挑戦してみたいなあと思っています。なかなかの重労働のため、一度やったら満足してしまうかもしれませんが…自分で作った味噌を食べる、とてもかっこよくて憧れる暮らしのワンシーンです。


2.銅屋場

 続いては「銅屋場(とうやば)」一般に、銅屋とは金属加工業に関連する言葉で、主に鋳造業を担っていたとされます。銅屋は「あかがねや」とも読み、この場合は金物を扱う商人を意味することも。小斎の銅屋場では何が行われていたのか、現時点では資料に巡り合えず、詳細不明ですが…

 この地名を見て最初に連想したのが、「もののけ姫」に出てくる、たたら製鉄。丸森でも筆甫地区で復興されていますね。劇中では、たたらによる自然破壊が森の神々の怒りに触れ、そこから物語がスタートしています。銅屋の仕事も同様に、森を切り開き、作物や川などの自然環境に悪影響を及ぼすもので、その営業は厳しく取り締まられていたようです。この後に出てくる地名とは、敵対してしまいそうな予感が…


3.くれ切場

 最後にご紹介するのは、「くれ切場(くれきりば)」。一番よくわからないかと思いますが、こちらは製材業に関するものと考えられます。かつては「榑切場」「𡑭切場」と表記されていました。茅葺や藁葺など昔ながらの屋根葺き材の一種に、榑葺というものがあります。特に飛騨地方で見られる葺き方で、薄く裂いた板材が用いられます。この榑とは単体の材木ではなく、ネズ、スギ、マツやクリなどの総称とされます。

 くれ葺場、ならまだ分かりやすいですが、くれ切場とは一体…?これは、榑葺き民家があったわけではなく、榑の加工場や運搬所があったのではと推測しています。榑は中世において角材でしたが、木材資源の枯渇などが要因となり、近世では前述のような板材に変化していきました。米の収量が少ない山間部では、榑のような材木が年貢として納められることもあり、馬や筏で運搬されたようです。暴れ川だった阿武隈川の旧河道に、くれ切場付近も含まれていたのではと考えています。ちなみに、長野県の泰阜村では、年貢の完納を祝う「くれき踊り」なるものがあるのだとか。現代では貴重な存在となった榑葺き、地名としてもかなりレア度が高いと思われます。


この地で描く半農半芸

 以上、職業にまつわる地名の紹介でした。

 地区と地名の紹介をしつつ、小斎のスタイルについて考えた今回。調べていくなかで、江戸期の小斎の農地は課題が多かったことを知りました。検知の際、農地は「上々田」「上田」「中田」「下田」「下々田」という風にランク付けされます。当時の小斎では、全体の6割近くが下田/下々田。排水が悪く米の収量も今ひとつ…な田んぼがほとんどでした。小斎は零細な武士の村だったようです。 前回書いたように、私の農地も課題が山積み。

 そんな中で、好きなことや得意なことを、土地の特性と掛け合わせて、いかにうまいことやれるか。うまいこと生きていけそうか。農業×食品加工の糀屋内。農魚×金属加工/金物商人の銅屋場。農業×製材/運搬のくれ切場。地名越しに見える、汗水流しながら日々を確実に生きている先人たちの姿。この地で半農半芸に憧れるのは、運命のような、必然のような気がしています。

 「生きるために食べる。食べるためにつくる。」

 これは、とある作品のキャッチコピーです。有名な格言をもじったと思われるこの言葉は、私が理想とするライフスタイルそのもので、TAPを知った時と同じ直感がありました。そして、小斎のスタイルとも何か近しいものを感じたのです。まだうまく、言語化はできないのですが…

 TAPは、農×アート、地域×表現者から、土地と文化の可能性を芽吹かせる活動。では、私の場合は?農業×郷土研究・表現?…まだまだ下書き段階の、模索中です。連載を通して、何か掴めそうな、そんな気がします。

 次回は【米と地名の話】 新米を食べながら読んでください。ではまた!

 文・イラスト / RUKA watanabe

第一回:なぜ小斎は米どころ?今に伝わる「三無俚諺」こちら

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